【知らないと危険】勉強嫌いになる理由
勉強嫌いになるのはなぜ?
多くの人は国語、数学、理科、社会、英語といった勉強が嫌いだったと思います。私もそうでした。中学までは「多少嫌いだな」ぐらいでしたが、高校になると「もう無理」、「マジ勘弁して」というレベルで嫌いになりました。
特に古典とか勉強しても全然理解できませんでした。センター試験の問題とか運ゲーでしたね。全然当たりませんでしたが。高校の勉強は今でも全くできません。このようにどうして私たちのような勉強嫌いが後を絶たないのはなぜでしょうか。
あなたと一緒に解き明かしましょう。
嫌いになるのは選ばされたから
私たちは自分で選んだものに執着します。例えば、親に「勉強しろ」とか「あの学校に入れ」とか言われるとむかつくわけです。なぜむかつくのかというと、答えは簡単で自分で決めたいからです。
人間は選択権が得られると脳の報酬系の一つである腹側線条体という部分が活性化します。それが活性化されると人間は喜びを覚えるわけです。では、逆に選択権があたえられないと人間はどうなってしまうのでしょうか?
人間は自分で選ぶことができないと学習性無力感を覚えます。これは自分の力でどうしようもできないと感じ学習する意欲もなくなり大きなストレスを感じます。
学習性無力感を感じ続けると病気になりやすくなり死亡率まで上がります。ですから、学校で無理やり椅子に座らせ勉強させるのはあまり良くない気がします。宿題も自分の中ではまずいのではないかと思います。
自分でやる内容ややる内容も決められません。宿題の内容に不満があっても私のようなコミュ障な人間は先生に言い出せません。できなかったら罰が待っています。このような状態を満たしているととてもつらいと思います。
注目してもらいたいのができなかったら罰が待っているという部分です。これは悪手です。なぜ悪手なのでしょうか?次に行きましょう。
罰をちらつかせて勉強させる代償
私が高校時代に勉強する意味は罰を避けるためでした。テストに向けて勉強するのは留年をしないためと補修を避けるためでした。課題をやるのは居残りや怒られるのを避けるためでした。これも相まって高校1年生の頃には毎週居残りになり、2年生では0点を取り、2年生から3年生の頃には何度も赤点を取りました。
私たちの脳は快楽をもたらすものに近づき、苦痛をもたらすものから離れるように設計されています。私たちは損失を回避するために行動するのが下手くそなのです。何か悪いことを予測した時には号しても後ずさってしまいます。
反対に良いことを予測したとき、行動する方がうまくいきやすいです。だから、罰をちらつかせて勉強するよりもアメをちらつかせたり自主性に任せてあげた方がいい結果が得られやすいということです。
だから先生は勉強しないと落第だぞと言うのではなく、勉強すれば両親も喜ぶ上に苦労が少ない人生が歩めるんだよと言ってあげるべきなのかもしれません。
しかし、損失回避を煽る恐怖喚起が良い方向へ転ぶこともあるようです。ですが、この恐怖が大きすぎるとそれについて考えようとしなくなり動けなくなってしまいます。低レベルの恐怖を使うことが望ましい行動をさせるようなのです。
なるほど、でも個人的にはあまり使われたくないないですが。ただ、自尊心の高い人はすぐに行動できますが、私のような自尊心の低い人は行動するのに時間がかかります。一定に時間が経過すれば動けるようになるそうです。それでも、ただでは恐怖での行動は期待できません。恐怖で人を動かすのには発動条件があります。次の条件を満たす必要があります。
①人に恐怖を与える
②恐怖の具体的な克服方法の提示
③克服方法が効果的だと知覚させる
④受け手が克服方法をできると考える。
以上の4つが必要があります。面倒だと感じたら恐怖と具体的な解決方法のセットで動かしやすくなると考えてください。
動かしやすくなるかもしれませんが、勉強が好きになったり得意になるわけではありません。あくまで行動させるのが目的です。やるなら恐怖喚起だけにしてください。罰を与えるのと恐怖喚起は違いますのでご注意ください。
そして、人によって効果が出るかには個人差があります。先程私たちは損失を回避するために行動することが下手くそだと書きましたが、恐怖喚起とどう違うのかの判断はよく分かりません。どうもすみません。
まじめに取り組ませる力
私には人によってつらいと感じるような習慣があります。それは食事制限です。私は体の具合が悪くなることが嫌いで胃がもたれるような感覚が苦手です。
他にも見た目が老けるのが嫌です。体の具合が悪くなることと、老けるのが嫌なので食事制限を続けています。多少つらいと感じることがありますが、何だかんだで何か月も続いています。食事制限自体嫌いではありませんし、むしろ楽しさすら覚えるくらいです。それはどうしてでしょうか?
私がその習慣を能動的に自分から努力してやるようになったからです。ほかの人からやれとは一言も言われていません。1から10まで自分からやりました。要因はこの他にもあるとは思いますが、努力して自分からやったのは大きいでしょう。
これがなかったら絶対に続けられなかったはずです。ほかの分野にも同じことが言えます。強制させるのではなくさりげなく行動させるのです。
この記事のテーマが勉強なので勉強分野で考えてみましょうか。例えば問題集を自分で選び、自分で買うとか、やる科目を自分で決めさせてあげることが思いつきますね。
このような行動に影響を受けた認識がますますその人を肩入れさせることでしょう。目の前の状況に前向きに取り組ませる気持ちを植え付けさせれば勝ちです。逆に自発的ではなく努力をしたわけではない行動には肩入れしませんし、長続きはしないでしょう。
まとめ
自分からやったのではなく他人にやらされた行動はやる気が出ません。人間は自分で決めたがる生き物だということです。罰を与えるのではなく肯定的なフィードバックを与えてあげることがいいでしょう。
参考資料
ロバート・チャルディー二「PRE-SUASION」(誠信書房 2017年 12月)
ターリ・シャーロット 「事実はなぜ人の意見を変えられないのか」(白揚社 2019年 8月)